少し前のニュースの話。
緊急事態宣言下であり、自治体からも山岳団体からも登山の自粛要請が出ているなか、八ヶ岳の阿弥陀で遭難した人物が救助された。
しかもその人物がすわ「新型コロナ陽性者か!?」となり、救助にかかわった隊員が数日隔離されるという事態になった。
そもこの人物は5月の阿弥陀にあがるのにアイゼンもピッケルも持っていなかったという話であり、非難はされて当然なのだが。
「恐れていた事態が起きてしまった」「都会の新型コロナキャリア→地方への感染拡大・地方の医療リソースへの圧迫とはならなかったのは不幸中の幸い」と、このニュースは登山界隈に重く受け止められた。
また別の話だが、登山の再開に向けて山小屋のこれからのあるべき姿が提言されたが、
「水も限られていて、物資も車両で運べない山小屋でそれは机上の空論だ」
と随分ざわついた。
山の自粛はこの先どうなるのだろう。
もとより「自粛」で始めたものなのだから、やめるのも自分の判断より他にないのだけど。
これってあるべき姿を真面目に考えれば考えるほど自縄自縛に陥る類の話に思えるのだ。
登山というものは。
江戸以前は信仰活動の一環であり。
明治にヨーロッパのアルピニズムが輸入されてもまだお金持ちの道楽という面が強かったと聞く。
それが戦後の「国民健康のためスポーツが必要だ」という国策による振興や、何度かの登山ブームを経て、今や登山は国民的レジャーとして定着したかのように見えるが……
しかし登山の本質には愚行権の行使という側面は間違いなく今も存在している。
「正しいあり方」を真面目に考えれば考えるほど、現実的な解は遠のくのではないかな。
いや、開き直れってわけでは決してないのだけど。
山で守らねばならないルールはたくさんあるが、それらは基本明文化されていない。
それには理由もある。
山にもよるし山に入る人にもいろんなパターンが考えられるため、明文化したルールを作るとなると一律に厳しい側に寄せたルールにせざるをえない。
例えば山でのトイレ。
年間通行がのべ100人にも満たないマイナーな山・ルートならば、
ぶっちゃけその辺で立ちションや野グソしたって実質的な問題になりはしない。(埋めるぐらいはしようね)
けれどシーズン中の天気の良い日には数百人が通るような人気コースでそれをやられたら、水質汚染や野生生物への給餌、道を逸れる際の植生や登山道の荒廃になる。
でも両者の間に線引きなんかできない。
だからこれをルール化しようとしたら「一律ダメ、山に入る前や指定のトイレで済ませてね」って話になる。
トイレだけの話じゃあなく一事が万事こうだから、できるならルールなんかない方が良いのだ。
その辺を弁えて高い倫理観を持ち、自己責任と他者へ迷惑をかけない振る舞いをできる少数の者だけが「ルール」を逸脱する分には黙認できるけれど。
みんながそれをしだしたらとても容認できなくなる。
そういうのってあると思う。
部外者から見たら閉鎖的で身勝手な理屈にしか聞こえないかもしれないが。
山小屋というものはそもそも旅館じゃない。
どちらかといえば軍の兵舎とか、お寺の宿坊とか、そっちよりの施設じゃなかろうか?
そこに泊まる人たちは一つの団体ではないものの、「山に登る」という同じ目的の為に集まった集団であり、機能的集団と言っていい。
そこに配慮を要する弱者は居ない、という前提をある程度割り切っても良いのではないか。
もちろんこれまでの山小屋のやり方に何の問題もないとは思わないけれど。
私も図体のでかい人間で、ぎゅう詰めの寝床とかは勘弁してほしい。
寝袋一枚分の横幅しかない富士山の山小屋とか、一つの布団に2人(時によっては3人)とかいう北アの人気小屋みたいなのはとても堪えられない。
他人が苦手な所もあるし、山小屋で一緒になった人とランプと一升瓶を囲んでガハハみたいなのもごめんこうむりたい。
だからこれを機に山小屋にももう少しだけ「他者との距離感」ができるならば、料金があがるのもやぶさかではないのだが。
愚行権の行使たる登山は2つの容認によって成り立っていると考える。
一つは自然のキャパシティ。
人間が山に入ること自体が自然破壊なのだが、人間が入る事によるダメージをコントロールして、自然の復元力を越えないようにうまく抑えること。
もう一つは社会のキャパシティ。
所詮道楽に過ぎない山登りが社会のリソースの圧迫と思われたらもう立ち行かない。
登山は社会の理解を得なければならない。
登山は愚行だが、だからこそ、この二つに対しては謙虚でありたいものだ。
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