2024年4月7日日曜日

2024/4/6(土) 北条氏照墓・矢倉沢の下り(高尾山周辺のバリエーション)

天気はいまいちなのだけど。
このところ山に登らなさ過ぎて心身に不調をきたしているので、少し歩いてくる。

高尾駅北口に来て、次に出るバスに乗る。
八王子城跡行だった。
小仏行や陣馬高原下行はそこそこ並んでいるが、城跡行は2人のみ。
赤字路線もいいとこだ。
駅から近くて沿線住民と呼べるのが霞住宅くらいしかない。
西東京バスがいつまで頑張るか。




ともあれ八王子城跡バス停。
いつもならまっすぐ西へ、八王子城へ向かうとこだけど。



八王子城を築いた北条氏照の墓へお参りしていく。



山の中の小さな墓地。
鎌倉の、頼朝・義時墓を思わせる。
小田原落城の際、実質的な当主である4代北条氏政と弟で抗戦派筆頭だった氏照は切腹となり、
家康の娘婿でもあった5代氏直は許された。
後北条家は戦国大名としては滅んだものの、江戸時代を通じて大身の旗本として続いた。
なので私は把握していないが、どこからしらに北条家の菩提寺はあるだろう。
この墓は落城時の城代であった中山勘解由の子孫が作ったそうな。



氏照墓の裏にもいくつもの墓がある。
これが家臣団の墓か。
擦り切れて読めないものも多いが、読めるものも皆江戸時代の年号だ。


墓地を越え、尾根上を辿る。


獣除けの柵がある。扉を開けようとしても動かない。


よく見ると針金が巻かれて開かないようになっている。
柵は頑丈そうなので、乗り越えた。


が、またすぐに乗り越える事になる。
結果からいうと乗り越える必要は無くて、左手を柵にそって迂回すればよかった。



心源院からのコースと合流すれば、あとはもう歩きやすい。





「お代官様の大好きな山吹色の花にございます」
「越後屋、ここにも春よのお」



展望地。
低い位置に雲がどんより。



綺麗に直された八王子神社。
山の上にもwebの候ぞ。






松木曲輪の桜と銅板。
小田原攻めの際のこの地の布陣を記した慶安元年の史料を銅板にして設定してある。
史料としてはおかしな点がちらほら。


以前はポンプがあって、ギーコギーコすると水がドバドバ出てきた井戸。
もうダメみたい。

八王子城というのは北条氏照が戦国時代終盤に築いた城。
小仏峠を越えて西から甲州街道を責めてくる武田(のちに織田)に備えるには、滝山城では不足であり、より国境(小仏峠)に近い場所に城が欲しかったのだろう。
すなわち城が向き合う敵は西から来て、南側の甲州街道を通る。
しかし城のつくりは東を向いて、東から攻められるのに備えている。
西側は低山とはいえ厳しい地形で、そちらから攻められることは想定していないようだ。



八王子城を西から攻めるのはそこまで難しいのか。
確かめるために(高尾山周辺にしては)道が悪いと評判の、矢倉沢を降る道を行ってみる。


最初は尾根筋の安全な道だが。




急斜面をジグザグに下っていくところは路肩が崩れかかっていて、足の置き場に気を使う。



ガレた谷底を下っていく。



ステップの無い、藪の中の急斜面の補助ロープ。
谷底に通れない箇所があって、その迂回で作られたのだと推測。


再び谷底を通って、



小下沢林道に下山。



ここまで2時間強。
少し物足りないので景信山の東尾根を登ってみようと思っていたのだけど。
どうも尾根の末端に取り付くにはここを行くみたいだ。
中央道の工事拠点とはフェンスで区切られているものの、奇妙な回廊状になっている。
地権者が工事拠点に土地を貸す際に、自分の通るスペースは区別するように要求したのだろうか。
人の気配もあり、今回はやめておこう。



中央道と中央線。
バスはちょど行ってしまった直後だ。
お昼時もあって、次のバスは1時間後。
いいや、高尾駅まで歩こう。


日影バス停のあたりから。
何度も見ている景色だが、あの正面が八王子城の方向。
こうしてみてみると、確かにこっちから攻めあがるのは……
軽身の小勢ならともかく、大軍は動かせないな。





道すがらの花々。



池袋に戻ってふく助
web記事でみたランチの肉団子丼がすごくうまそうできたのだが。
今日はもうランチは終わってしまったとのこと。



沸騰小吃城で羊雑面。
つまり羊のモツ入りラーメンね。
麻辣スープがはねておろしたての白いシャツを赤く汚してしまうが、そんなものを気にしてはいけない。